蘇我氏の本宗家は、自分たちを狙ったクーデターのことをまったく察知していなかったのでしょうか。あるいは、そうした動きを制圧しようとする姿勢はなかったのでしょうか。

日本書紀』によると、舒明朝から皇極朝にかけて蘇我氏は専権の度合いを強め、それを危惧した王権の一勢力によって誅滅されたという文脈で記されています。しかし、馬子から蝦夷への代替わりの過程で蘇我氏の結束が動揺し、また他の氏族との連携にも亀裂が生じたことは確かです。反対勢力の存在も、とうぜん本宗家は感知していたものと考えられます。蝦夷・入鹿の邸宅が、板蓋宮を抱え込むように聳える甘橿丘に建てられたのは、何らかの戦略に則ったものだと推測することもできます。しかし彼らには、権力を自分たちに集中することで難局を乗り切ろうとすることしかできなかったのでしょう。その種々の施策が、『書紀』には蘇我氏の専横、悪行として記されているのだと思われます。入鹿による山背大兄王の襲撃も、『書紀』では蘇我氏の横暴の極致として描かれていますが、反蘇我勢力への牽制とみた方が妥当かもしれません。