前近代においても、環境破壊が問題視されることはあったのでしょうか。 / それでも、日本人の自然観の根底には、「畏れ」があると思うのですが、どうでしょうか。

次回の授業でお話ししますが、それが災害に発展した場合には問題視されます。記録に残るのは王権や政府のものですが、一般の村落共同体レベルでも、過度の破壊によって手痛いしっぺ返しが生じた場合には、開発を抑制するなどの措置が取られたでしょう。それは、列島に暮らしてきた人々の自然に対する畏れ、それを利用して生活するうえでの後ろめたさにも通じてきます。例えば、地域における伝承のなかにも、樹木を伐ったことが原因で鉄砲水が生じたことを誡めるもの、神木を伐って売り払った結果全滅した村の話などは、多数見受けられます。しかしそれでも、今生き抜くことが未来がどうなるかより重要だった。非常に刹那的な生活態度ですが、これは現代を生きる我々の将来的ヴィジョンの希薄さ、政治の計画性のなさなどにも関連しているのかも分かりません。なおアジア地域においては、戦国時代に道家墨家の思想が、開発に対する自然の攪乱を批判しています。『春秋左氏伝』や『国語』といった同時期成立の歴史書にも、過度な開発を誡める内容の記事を見出すことができます。