私たちは、どうすれば「絶対に正しい歴史」を得ることができるのでしょう。 / 歴史の真実は、目撃者がいかなければ明らかにならないのでしょうか。

「絶対に正しい歴史」とは、捏造されていない、正確な、という意味でしょうか。この点は、ポストモダン的観点からすると、「不可能」ということになってしまいます。なぜなら、例えばある事件に関し目撃者が存在したとしても、その目撃者を通じて判明するのは、彼/彼女が捉えた、彼/彼女なりの「真実」に過ぎないからです。かつての歴史学はそこから主観を排し、普遍性を見出そうとしましたが、現在はその「主観」をこそ大切なものと考えているのです。また、事実性については抽象度の問題も関係してきます。例えば、先の事件の表層的な事実関係、AがBを殺した、などといったことは、目撃者がいれば判明するレベルの、抽象性の低い事実といえます。しかし、ではAはなぜBを殺したのか、AはBをどう考えていたのか、死ぬ瞬間Bは何を思ったのか、といったようなことは、目撃者がいても判明しません。殺害の「動機」などは、よくドラマや映画で刑事や探偵が類推し、裁判でも事実認定が行われますので、あたかも普遍的で絶対普遍の「事実」があるかのようですが、当のA自体よく分からないことも多いのです。裁判など、社会がみな納得するような物語を創出する場に過ぎません。現代歴史学は、抽象度の低い事実関係に止まらず、より抽象度の高い問題へ分析・思考の手を伸ばしていますので、常に仮説にならざるをえない面もあるのです。