「歴史」と「単なる事実の積み重ね」は何が違うのでしょうか。事実は何をもって歴史の一部となりうるのでしょうか。

一般的に歴史学・歴史叙述とは、断片的な事実を繋ぎ合わせ、ある時点からある時点に至る対象の変化の過程を跡づけ、その理由について考察し叙述するものです。しかし初回の講義でも扱いましたが、「歴史」とは過去そのものではなく、主体(例えば研究者)によって構築された物語り(narrative)に過ぎません。もちろん、その構築の方法・過程についてはさまざまな手続きがあり、常に反証可能性が確保され学界における議論に供されており、また社会によっても監視されていますので、主体が恣意的にフィクションを創出してしまうことは抑制されています。しかし、コトバによって過去そのものを表現しようとした時点で、それは過去そのものからは遠ざかってしまいます。「歴史」とは過去の表象としての物語りであり、その事実性や存在意義は社会によって担保されているといえます。また、現在になって確認できる過去の「事実」自体も、間違いなくそうだといえるのは非常に抽象度の低い断片的な事柄だけです。例えば、大久保利通が暗殺されたという事象は、史料の調査によってある程度事実と確認できますし、誰によって殺されたかということも判明しうるでしょう。しかし、なぜ殺されたのかという抽象的な問題になると、何かひとつの理由を確定してしまうこと自体が極めてリスキーになり、正しいともいえるし正しくないともいえるという情況になってゆきます。現在の我々にも、就職面接における「志望動機」の確認など、非常に単純な目的・理由の表明を突きつけられることがありますが、当の回答している本人でさえ、自分の言っていることが「事実である」と断言できる場合は少ないのではないでしょうか。すなわち、この「事実」さえ、我々が言葉によって構築したもので、「事実」そのものではありません。よって実は、「歴史」と「事実」という術語自体、上位概念/下位概念といった区別はできないのです。その意味で、もちろん「歴史」は「事実」の積み重ねではありませんが、しかし「事実」はそれ自体「歴史」であり、少なくとも歴史学の対象であるともいえるのです。