明治・昭和の三陸大津波で海岸に回帰した人々は、自分の命が助かると思って行動に移したのでしょうか。それとも、土地のアイデンティティーを守ることが、命と同等の意味を持っていたのでしょうか。

「経済的理由」にしろ「民俗的理由」にしろ、やはり生存するという本義の表現の相違なのではないかと思います。三陸地域で生きてゆくためには、これまで関わってきた生業=漁業を続けざるをえない、土地で生きてゆくうえでは、大地と一体化した祖霊との繋がりを維持してゆかねばならない。また、この悲惨な経験が必ず次回には活かすことができ、今度は絶対に安易に生命を落とすことはないとの思い込み、楽観があったことも確かでしょう。明治の大津波のときには、実は震度自体は2程度で、ほとんど地震による被害はなかったものの、津波は最大打上高38メートルにもなる大規模なもので、2万人以上の溺死者を出しています。このことから「大きな津波があるのは、揺れが小さいとき」との誤った伝承が生まれ、地震の揺れの酷かった昭和の大津波の際に、避難する足を鈍らせたとの報告もあります。充分に注意をしているつもりでも実態は的を大きく外している、災害に備える心理にはよくそうしたケースがみられるようです。