オオクニヌシは古代の巫覡の首長だったのでしょうか。古墳の周囲に濠が造られたのは、土を盛るためではなく、水辺を造り出す目的だったのですか?

斎藤英喜さんはそういう見方ですね。ぼくは、オオクニヌシの神格にしろ、神話にしろ、幾つかの在地の神々のものを集めて合成したものであると考えているので、それが成巫譚のようになっていること自体に関心があります。意識的にそうしたのか、あるいは自然とそうなってしまったのか。成巫譚のアーキタイプとしての位置づけに関わることと思います。なお古墳については、方形周溝墓からの伝統を考えれば、墳墓を周囲と区画して特別地域化する目的がそもそもと思われますが、しかし葛城の巣山古墳で造り出し部に水辺の祭祀が再現され、木棺を運ぶ船の残骸も発掘されていることを考えると、時代や地域によってはより深い意味を持たせたことがあったのだろうと思います。
湧水点祭祀や導水祭祀が首長の重要な義務であったとすれば、その墳墓を水で荘厳することは当然であったのかも分かりません。