ヤマト王権による全国的な統一があったのは分かりますが、なぜそこまで拡大できたのか、少々イメージしづらいです。

邪馬台国ヤマト王権を完全に別のものとみてしまうと、確かに唐突すぎる感があります。しかし実際のところは、倭国大乱の時代に統一へ向けての種々の試みがあり、それが時折「倭国王」の形で出現していたとみれば、どうでしょうか。共立された卑弥呼の「邪馬台国」はその完成直前の姿であり、「親魏倭王」の称号を得て強化される。三角縁神獣鏡が彼女が魏から得たものとすれば、それが全国的に分布するのは、邪馬台国の領域がほぼヤマト王権に重なることを意味していると思われます。卑弥呼の死後、しばらくの混乱を経て再び統一された列島は、前方後円墳体制へと移行しますが、その古墳の石室には三角縁神獣鏡が副葬される。それは、古墳の被葬者が邪馬台国へ服属していたことを示しており、同時にヤマト王権の傘下にあることを標榜しているわけです。ヤマト王権の広がりは、前代から続いた統一への試みの積み重ねの結果なのだと考えると、それほど唐突でも不自然でもなくなるでしょう。