東北地方にも古墳があるということは、蝦夷のような人々も、多少なりともヤマト王権へ服従していたのでしょうか。

最北端の前方後円墳は、岩手県の胆沢付近にある後期〜終末期の角塚古墳(46メートル)、最大規模の前方後円墳は、宮城県名取市にある中期の雷神山古墳(168メートル)です。後の対蝦夷政策の展開をみてゆくと、これらの前方後円墳蝦夷らの族長的存在の墳墓であったことは疑いないのかなと思います。『日本書紀敏達天皇紀には、叛乱を起こした蝦夷の魁師綾糟らが大和へ出向き、大王へ服属を誓うという場面がありますが、そうした階層の人々が営んだものでしょうか。前方後円墳体制の政治的繋がりは、後の古代国家、律令国家による中央集権的な支配秩序に比べ、非常に緩やかなものであったと考えられます。地域の王権の支配のあり方も基本的にはその固有性に任せていたでしょうし、王権との関わり方も多様であったに違いありません。それゆえに、東北部までの広がりをみせていたのでしょう。