2人の書生は自然もしくは土着の神であり、老婆はシャーマンであったという解釈は成り立ちますか。また、現在の歴陽ではどのような話が伝わっているのでしょう。

次回の講義で触れますが、中国文学の研究史においては、そうした見方が早くからなされています。確かに、神→シャーマンの託宣の問題が、背景に隠されていることは否定できません。しかし、そうした内容が明確に表れてくるのはもっと後世のことであって、成立の時点では、災害との密接な結びつきを見逃しては成らないと思います。老婆はあくまで、善良ながら「普通のひと」として造形されており、その彼女が、災害の予兆に敏感に反応して逃げ出す。洪水の前触れが感じられたときは、それがいかなることであってもまず逃げる。その真偽は、逃げた後に判断すればよい。そうした論理の徹底される情況、災害に対する緊張感が、高誘注型の生まれてきた時代・社会にはあったわけです。