救われるのは、なぜ老婆でなければならなかったのでしょうか。また、書生は2人ですが、来訪神は単独ではなく複数で現れるのですか。

恐らく、書生が男性として現れているので、陰陽の対応から老婆が設定されているのでしょう。もちろん、神/シャーマンの関係が背景に隠されていることは看過できません(ただしそれは、憑依の役割が女性に固定されているというわけではなく、その逆もありうるわけです)。また、老婆には夫や家族のいる描写が出てきませんので(後世には出てくる)、庶民層の寡婦の置かれた社会的情況を反映しているのかもしれません。また来訪神については、単独の場合もありますが、複数の場合もみられます。次回参考程度にお話しする『旧約聖書』もそうですし、『備後国風土記逸文の場合も、2度目に訪れる場合は複数です。昔話、民話の類でいえば、笠地蔵などが複数ですね。来訪神の仏教バージョンともいうべき、往生の際に出現する聖衆来迎も大人数です(そうそう、『竹取物語』も大人数ですね)。