2014-06-06から1日間の記事一覧

古代の神聖な芸能が娯楽になってしまうのは、どのようなプロセスを経た結果なのだろうか。 / 網野善彦氏の著作から、神に仕えた人々は神の権威の低下に従って卑賤視された、と学びました。だとしたら、門付芸人が卑賤視され、神職がそれを免れた理由が分かりません。彼らが神社という「土地」に基づいた権威だからでしょうか?

いわゆる神の零落の問題は、柳田にしろ、ハイネの『流刑の神々』などに基づいて構想されたものです。古代から現代にかけて、果たして神の零落、世俗化の問題として、宗教史を単線的に語ることができるかは、現在では疑問視されています(すなわち、地域によ…

水を神聖なものとする考え方についてですが、平安時代の庭園に水辺が作られるのも同様の思想に基づくのでしょうか?

奈良時代の貴族邸宅における庭園遺構には、古墳時代の水の祭祀場に用いられたのと同じ技術が使用されており、また、そうした場で行われた宴などでも、神仙思想に基づく漢詩の詠まれたことが判明しています。長屋王の別邸作宝楼などは、『懐風藻』に神仙境に…

洪水を避ける呪術が逆に水災を呼び寄せるものと受けとめられたとのことですが、授業で触れたような占い、呪いを生業にする人々がいたにもかかわらず、なぜこのような自体が起きたのでしょうか。

呪術や占いに対するものの考え方、知識、技術などは、時代や社会との関係のなかで、やはり長い時間をかけて変化してゆくものです。例えばやはり『周礼』の段階から記載があり、日本まで受け継がれてゆく追儺という祭儀があります。これは、年末に宮廷におい…

中澤先生の特講でケガレを扱った際に、六畜を殺すことは穢れの対象になるといったことを聞きました。中国での供犠は牛・羊・豚が主要とのことでしたが、日本には影響しなかったのでしょうか。

例えば、中国王朝で行われた孔子を祀る祭儀である釈奠は、8世紀を通じて日本での受容・整備が進みましたが、もともとはやはり三牲=牛・羊・豚を供えるものでした。しかしまず、この動物犠牲のそれぞれが、牧畜を行わない日本では一般的ではない。そこで、…

鶏人についてですが、祭祀関係の官職としては、身分は高い方だったのでしょうか、低い方だったのでしょうか。

ヨーロッパの動物供犠では、捧げられるのは豚や山羊なのですが、鶏は主にアジアで用いられているのですか。地域によって、捧げられる動物も違ってくるのでしょうか。

供犠される動物の種類は、もちろん地域、時代によって異なっています。中国の場合では、牛・羊・豚は家畜であり、牧畜文化において、人の作ったものを神に捧げるという思想が根底にあるものと思います。ぼくが調査に参加した雲南省の少数民族納西族において…

血が災いを退ける効力があるとのことでしたが、日本では月経などのようにケガレのイメージが強いです。これは、中国文化と日本文化の相違なのでしょうか、それとも時間的な相違ですか?

血のケガレとしての性格が強まり、制度化してゆくのは、日本でも平安時代以降のことです。例えば『播磨国風土記』では、鹿の血を水田に注ぐことで、苗が一夜のうちに生育するという伝承が出てきます。現在では神社も血を嫌うものとされていますが、かつては…

日蝕や月蝕も天災という扱いになっていますが、直接的な被害はないのに、なぜそのように捉えられているのでしょうか。

太陽や月を神格化している地域は多いですが、中国の陰陽五行説では、それぞれ陰陽の気の起源、集合というころで、太陽/太陰と呼びます。それが「蝕」されるわけですから、これは世界を構成している陰陽のバランスが崩れ、もろもろの災異を引き起こす原因と…

予兆が悪戯であったという点に違和感があるのですが、それも天命によるものだと解釈するのでしょうか。

天命によるかよらないかは『論衡』の解釈であって、高誘注型の物語に内在化している論理ではありません。予兆が悪戯であるのは、この物語が災害警告的であるとするならば、その予兆の些細さ、いかがわしさを強調するものでしょう。たとえそうであっても、ま…

救われるのは、なぜ老婆でなければならなかったのでしょうか。また、書生は2人ですが、来訪神は単独ではなく複数で現れるのですか。

恐らく、書生が男性として現れているので、陰陽の対応から老婆が設定されているのでしょう。もちろん、神/シャーマンの関係が背景に隠されていることは看過できません(ただしそれは、憑依の役割が女性に固定されているというわけではなく、その逆もありう…

2人の書生は自然もしくは土着の神であり、老婆はシャーマンであったという解釈は成り立ちますか。また、現在の歴陽ではどのような話が伝わっているのでしょう。

次回の講義で触れますが、中国文学の研究史においては、そうした見方が早くからなされています。確かに、神→シャーマンの託宣の問題が、背景に隠されていることは否定できません。しかし、そうした内容が明確に表れてくるのはもっと後世のことであって、成立…

『論語』十二篇「顔淵」によると、司馬牛の「他の人はみな兄弟がいるのに、私だけいない」という発言に対し、子夏が「死生命あり、富貴天に在り、…君子でさえあれば、兄弟のない憂いはないでしょう」と答えています。『論衡』の内容は、少し断章取義的なのではありませんか。

正確には、子夏の回答は、「死ぬことにも生きることにも天命があり、同じく財産の貧富も地位の高低も天命による。君子たる者、自重して礼を失することなく、他者に対して謙遜し礼儀を重んじているならば、世の中の人々すべてが自分の兄弟のようになる。実の…

志怪小説が具体的にどのような話を収めているのか、気になりました。フィクションと実話の度合いが知りたいです。 / 「中国文化史」という講義では、志怪小説はフィクションであるとの説明を受けました。どちらの見解が通説的なのでしょうか。

フィクションという概念自体が非常にデリケートなものなので、これを安易に用いるのは危険だと思います。この講義の前半でソシュールなどの話をしましたが、人間の認識システムを前提にすれば、我々が把握しうるあらゆるものごとがフィクションになってしま…