儒教や仏教などの中国文化を威信財だとすると、武から文への傾向の変化は、より抽象的なものを理解するようになった、日本人の心の成長だということもできますか? / 飛鳥以前にも半島や大陸とやり取りをしていたのに、文のものが流入していなかったのはなぜですか。 / 飛鳥時代に漢字や儒教の導入が図られたとのことですが、日本で漢字を用いるのは飛鳥時代からということですか。

抽象的な文化を受容する態勢ができてきたことは確かでしょうが、それを「発展」とみてしまうのは、いささか近代主義的といえるかもしれません。古墳文化以前の列島の人々の思考・心性が「原始的」であり、儒教や仏教が「進んでいる」というのは、文化の単線的な発展史観ということになってしまいます。近代社会は喪失してしまったけれども、民族社会には共有されている大切なもの、という視点も当然ありうるわけです。やはり最も大きな理由は、そうしたものを輸入し、読解し消化してゆく契機が整った、ということでしょう。例えば文字ですが、もちろん前代の古墳時代にも文字は入ってきており、講義でも紹介したとおり鉄剣や銅鏡の銘文が刻まれていました。しかしそれが広がらなかったのは、文字をもって記録することの必要性を、多くの人々が共有していなかったからでしょう。神話=歴史その他の知識は、語部と呼ばれる人々が口承の状態で記憶し、必要に応じて開陳していました。文字の使用はその伝統を壊すことになりますので、いろいろな軋轢があったと思われますが、文字使用の経験は国家を運営してゆくうえでの中央組織、地方組織のなかで積み重ねられ、次第に社会的需要も高まっていったものと思われます。