明治政府が祭政一致を目指したとき、また神道事務局神殿論争の展開と終息に際して、一般民衆からの反発などはなかったのでしょうか(広い支持層を持っていた出雲派は、そう簡単に衰退してしまったのだろうか?)。国民は神道に大きな関心を寄せていたのでしょうか? / 出雲派や平田派の争いが、戦争にまで発展しなかったのはなぜでしょうか。

もちろん、社会は大混乱に陥っていました。自由民権運動の展開と国会開設へ至る時代的流れと、この祭神論争の終結までの経過がほぼ時期的に重なっているのは、両者が無関係ではなかったことを意味しています。しかし、議論の中心にあった千家尊福は、大日本帝国憲法の発布される前年に当たる1888年伊藤博文の推薦によって元老院議官に就任し、以降貴族院議員や東京府知事などを歴任してゆきます。いわば彼は明治政府に忠誠を誓い、転向してしまったわけです。出雲派の求心力は、そのことによって急激に衰退してしまったといえるでしょう。以降、出雲大社が果たそうとしていた神道の宗教的役割は、軍部の統括する靖国神社へ奪われてゆくことになります。しかし、この火種はその後も社会のなかへくすぶり続け、平田国学の近代バージョンともいうべき『霊界物語』を生み出した大本教をはじめ、種々の神道系、仏教系新興宗教の勃興となって再燃してゆき、またそれらへの弾圧を通じ国体が強化されてゆくことになるのです。