もし聖徳太子の存在がないとされれば、どこまで「歴史」は変わるのでしょうか。

あまり変わらないかもしれませんが、後の時代における太子への言及の意味が違ってきます。古代国家の構築したイメージが平安時代を通じて肥大化し、中世・近世・近代と国家発揚に用いられてきた。そのそもそもの形が虚構だったというのは、皮肉という以外にないでしょう。古代の神話を繰り返しナショナル・ヒストリーとして回帰させるという、日本の前近代性の象徴とも位置づけられます。