人間が知能を持ち、自然が破壊されていること自体を、「自然」とはみられないのでしょうか。人類の存在を逸脱したものと考えるのは、逆に特別視してしまうことになると思いますが。
近代に至って自然/人間の乖離が進み、そのことに危機感が生じてくることによって、逆に前近代はそうではなかったのではないか、人間は自然と一体感をもって生活していたのではないかとの考えが生まれてきますが、個人的には、それは幻想であると思っています。縄文時代でさえ、自然のサイクルと自己を一体化しようとする祭儀が存在する(土偶祭式など)ということは、いいかえると、自然/人間は分断されているという意識が存在したわけです。現在狩猟採集を営む民族社会でも、自然/人間を二元的に把握する視点は強く存在します。少なくともホモ・サピエンスに、「自然」という認識、「人間」という自意識が発生した時点で、分断は始まったとみるべきでしょう。これを「自然だ」と捉えようとするのは、単なる思考ゲームに過ぎないのではないかと思います。