2015-01-14から1日間の記事一覧
ガイダンス >http://urx2.nu/gbz8日本史の枠組みの形成 >http://urx2.nu/gbzd日本史研究/教育の乖離:古代 >http://urx2.nu/gbzi日本史研究/教育の乖離:中世 >http://urx2.nu/gbzs
IPCCの未来予測では、主に地球温暖化によって、数十年後にはかなり破滅的な情況が予測されています。現在気象の震幅が極端になる異常気象が各地で起き、災害も多発していますが、人為的影響による環境の急激な変化がもたらす現象なのでしょう。早急に我々の…
そうですね、花見の文化は古くからあります。生物多様性の観点からクローンのソメイヨシノばかりが増えてゆくこと、それを慈しむことがあたかも日本的伝統であるかのように誤解していることが問題なのです。「責任」は、誰に対するものかによって考え方が変…
松根油ですね。確かに戦時中、これを確保するために松が根こそぎ掘り採られ、比較的広汎に存在していた松林が激減したことは確かです。 スギの植林に関しては、戦中というよりも戦後の復興過程で計画・実施されたものがほとんどでしょう。これも、もともとの…
中世の段階であれば、所在の在地領主などの寄進により、境内地はもちろん、周辺の広大な領域が寺社の所有になっていることが多かったはずです。当然、寺社はこれを管理し勝手な伐採を禁じていましたが、周辺の庶民、場合によっては武士団などが狼藉を働き、…
実は、生物学的に明確な区別はないのです。「柴」は低植生灌木類の総称、「芝」は主にイネ科の草類を指すと考えられています。『善光寺名所図会』では木々の枝も落としているので、細かな枝の類も「柴」と呼んだ可能性はあります。「草」はそれ以外の草類で…
このあたり、まだ不明確な部分も大きいようです。草山や芝山の実態が明らかになる以前は、研究者の間でも、草肥の需要はそれほど高くはなく、堆肥が主流であると考えられていました。都市周辺では家畜や人間の糞尿が金銭で売買され、農村が貨幣経済に取り込…
こちらの説明が不充分だったかもしれませんが、ブナは植林されたわけではありません。江戸初期までは、ブナも自生していたものの、針葉樹林が支配的な植生だったのです。それが、木材として需要のあった針葉樹が伐採され、不要であったブナが残されたために…
天には太陽があり、日光と雨という、生き物が生存してゆくために必要なものを授けてくれます。ゆえに、天にあるものは人類の歴史のかなり早くから、世界中で神聖化されてきました。太陽はもちろん、月、星もしかりです。アジアの先進文化発信地であった中国…
「田」という字自体は条里制以前から存在しますので、必ずしも条里制を形象化したものではありません。中国では「田猟」という言葉があり、「田」は狩猟の意味でも用いられます。しかし、ひとりの人間が何らかのものを生産できる範囲を指すことは確かであっ…
前回のコメントにも書きましたが、日本列島の食生活は、歴史的には非常に複合的な状態で成り立っていました。必ずしも、稲作や米が主流ではなかったのです。他の五穀や各種のイモをはじめとする根菜類、果樹その他、多くの食物が作られていました。水田以外…
構いません。しかし、里山とはいかなる状態を指しているのか、草山を前提とした世界か、現在のイメージか、共生とは一体いかなることをいうのか、というのが今回の単元のテーマです。草山を前提とした世界であれば、過度な環境改変は災害を頻発させる結果に…
講義をよく聞いていただきたいのですが、ぼくは列島における開発の展開を否定しているわけではありません。縄文時代の件についても、縄文を共生のユートピアのように位置づけるのは間違っていると説明しただけです。かつての環境考古学者のなかには、縄文の…
ぼくが専門としているのは、まさにそうした領域です。多少はアジア、ヨーロッパとの比較もしていますので、授業で紹介した文献などを読んでみてください。自然への踏み込み方がどう違うか、ということは、それぞれの自然環境とそのなかで営まれてきた歴史、…
オゾン層の破壊や地球温暖化、放射能の垂れ流しなどの問題を考えると、地球上のあらゆる領域が人間活動の影響を受けていることは否定できません。その意味で、地球上に「人跡未踏の地」はなくなってしまったといえるでしょう。少なくとも、地表においては。
近代に至って自然/人間の乖離が進み、そのことに危機感が生じてくることによって、逆に前近代はそうではなかったのではないか、人間は自然と一体感をもって生活していたのではないかとの考えが生まれてきますが、個人的には、それは幻想であると思っていま…
さまざまな立場が存在すると思いますが、ぼくの場合は、生態系のバランスを攪乱してしまう自体は、程度の差に関係なく「破壊」と認識します。それが良いのか悪いのか、許されるのか許されないのかという価値付けは、また別の問題になってくるでしょう。