文物の輸入は大変なことだと思うのですが、この時代の渡航の危険性はどうだったのでしょうか。

瀬戸内海においてさえ遭難してしまうような時代ですから、もちろん常に危険は付いて回ります。しかし、例えば壱岐対馬朝鮮半島のルートであれば、一定程度の交流ができるような情況にはありました。古代における「漢委奴国王」の金印や近世の出島の影響からか、日本では「朝鮮に近い場所は九州」との固定観念がありますが、北陸から山陰にかけての地域にも半島と直接的に交流していた場所はあります。以前に少しお話しした青谷上寺地遺跡などは、農耕具から占いの道具に至るまで朝鮮系の文物が使用されていたことが分かっています。まさに日本海側全体が日本列島の表玄関であり、盛んな交通が行われていたのでしょう。それはこれ以降、さらに活発化してゆくことになります。