系図では、吉備姫と茅渟王の子が皇極・孝徳になっていますが、舒明・皇極の結婚は、世代的にずいぶん年令が離れていたのでしょうか。

授業で掲げた系図では、茅渟王は舒明と同父(押坂彦人大兄)・同母(糠手姫)となっていますが、『本朝皇胤紹運録』という文献には母を漢王の娘である大俣王としており、どうも母親が異なっていたようです。『書紀』を検証してゆくと、舒明・皇極はほぼ同年齢であったようで、恐らく茅渟王・舒明はずいぶん年齢の離れた兄弟であったのだと考えられます。