蘇我入鹿は、中大兄の父田村皇子=舒明を支持していたのに、なぜ中大兄に殺されることになったのでしょうか。
講義でもお話ししましたが、蘇我氏はほぼ山背大兄を後援しており、田村皇子とは政治的に対立していました。そのなかで蝦夷が、朝廷を構成する他の派閥との協調を保つべく、田村派に妥協したのです。その結果蘇我氏内に紛争が生じたため、入鹿は山背大兄を排除すべく動いたと考えられます。田村を支持していたわけではありません。また講義では触れませんでしたが、舒明はその晩年に、蘇我氏と対立関係に入ったと考えられます。それまで蘇我氏の勢力圏内に置いていた自身の宮を、突如飛鳥の北方に移し(百済大宮)、これまで蘇我氏に握られていた仏法興隆権にも異議を唱え、馬子の建てた飛鳥寺はもちろん、これまで日本に建てられたいかなる寺院よりも巨大な百済大寺を建立してゆきます(後の大官大寺)。これが、大王家が自身で建てた最初の寺院なのです。蘇我氏の本宗家と舒明血統の中大兄は、早くから対立関係にあったと考えられます。