天皇制の普及による土地の神聖性の剥奪、とありましたが、民衆はそれまで大切にしてきたものを、それほど簡単に手放してしまうものでしょうか。現在まで神聖なものと崇められている山々もありますが、これらは中央政府からどのように扱われたのですか。

確かに、古代に土地の神聖性がすべて失われてしまうわけではありません。しかしそれは、次第に人間から自然環境への畏怖を奪い、「コントロール可能なもの」との意識を醸成してゆく。その最初の画期が、現御神天皇を擁した古代の開発にあった、というわけです。この頃の神殺しの史料は、『日本書紀』や『風土記』のなかにみられます。安芸国(現広島県)では、雷神の宿る霹靂樹を、現地住民の反対を押し切って「天皇の造船命令のため」と伐りかかり、妨害に現れた雷神を焼き殺して伐採を達成する。常陸国では、役民を徴発して行われた治水工事を妨害すべく現れた夜刀神が、「民を活かす天皇の工事にどのような神が反対するのか」との一喝で逃げ去ってしまう。こうしたイデオロギー操作は、社会に開発の機運が昂揚しているときに行われることで、人々の自然環境に対するタブー意識を希薄化させ、開発をめぐるハードル(例えば、どこまでを神聖な領域とし、どこまでを人間が開発して良い土地とするか)をだんだんと乗り越えさせてゆくのです。現在神聖な場所として残る神社、山岳などは、開発によって囲い込まれ最後に残された場所であったり、開発不可能な場所であったりすることが多いのです。そうでない場合は、一定の畏怖を保ちつつも、ほぼ人間の欲望を保証する現世利益のツールとなってしまっている場所が多いように思います。