幕府は朝廷から任命されるイメージでした。朝廷がなかった時代、中国から許可を得ていたとは驚きでした。

つまり、鎌倉時代における後白河法皇源頼朝の関係が、南北朝時代における宋―倭の関係と相似形なのです。東アジアは中華王朝を主宰者とする世界(もちろんこの時期、その中華王朝が南北に分裂していたわけですが)ですので、東アジアにおける国際関係のなかで国家として認められるためには、王朝から国王としての地位を公認する冊封を受けねばならない。府官制はそれが一層進んだ形で、倭王権としては、皇帝の命令を奉戴する形で、極東の安定を図るため高句麗を討伐する、という建前を採っているわけです。