崇仏論争は虚構であった可能性が高いとのことですが、なぜ崇峻は暗殺されたのでしょうか。 / 崇仏論争が虚構だとしたら、物部氏はなぜ滅ぼされたのですか。

崇峻が殺されたのは、崇仏論争とは関係がありません。崇仏論争のときには、崇峻は蘇我馬子の側に立って勝利しています。ところで物部氏滅亡のことですが、これは『日本書紀』さえもがそう書いているので、これまで物部氏滅亡が崇仏論争の結果としてきたのは明治以降の研究によるものであり、ある意味で誤読です。もちろん、仏教を国を挙げて崇拝しようとする蘇我馬子と、神祇の信奉に関わる物部守屋・中臣勝海が、その是非をめぐって対立関係にあったのは確かですが、それが他の王族・氏族を巻き込んだ内戦に発展するのは、用明の後継者をめぐる穴穂部皇子/泊瀬部皇子との皇位継承争いが原因です。物部氏・中臣氏が穴穂部の側に付き、中臣勝海と穴穂部はその過程で殺され、孤立した物部守屋を、蘇我氏を中心とする王族・豪族の連合軍が包囲して滅ぼすのです。