2016-06-13から1日間の記事一覧
未だ朝廷の大勢は占めていた、と考えられます。そうでなければ、大臣の役職を維持することもできなかったでしょう。舒明天皇は、即位した当初は蘇我の本拠である飛鳥の中心部に宮を構えますが(岡本宮)、晩年にはその領域から出て、かつて継体を奉戴した息…
蘇我氏の権勢を物語る史料は、さまざまに残されたと思われます。上記に述べたように、利用価値があるからです。しかしそれが、歪曲されて伝えられた。そのあたりを批判する言説が生まれなかったのは、改新政府においては反本宗家勢力がその中心に位置し、壬…
まず、王権が仏教に奉仕しそれを支配地域に広げようとしている、という事実、王侯士大夫から庶民に至るまでが仏教を理解し信奉している、というポーズを示すことが必要なのです。それによって、隋が支配する東アジアのなかで、自国のポジションを引き上げる…
全部がそうだというわけではありませんが、大王の墓は寿陵、すなわち即位してから生きているうちに造営し始めるものが多かったのではないか、と考えられています。崇峻の治世は5年ほどに過ぎませんが、大王墓自体の規模も小さくなっていたので、造営にはそ…
もちろん、その理由は大きいでしょう。6世紀には、高句麗と新羅の勢力に百済は圧迫されていました。倭が友好関係にあるうちは不安定ながらも差し迫った問題はありませんが、例えば半島南部を新羅に押さえられてしまうと、百済は完全に高句麗や新羅に囲い込…
概ね自然環境を象徴する存在としての神が列島中に広がっており、大地を潤す湧水点を抱え込む、前面に河川、後背に山地を持つ神社の神々が大部分であったと考えられます。6世紀の中頃には、王権の内部に構築された祭祀関係の機関を基盤に、ヤマト王権の勢力…
これについてはよく分かりません。7世紀の半ばにおいては、未だ実力主義の大王擁立の慣習が残っていたとも考えられ、いわゆる継体王統以外からも、大王になりうる存在が輩出されたとしてもおかしくないのです。推古朝の倭国に対し、『隋書』は大王を後宮を…
崇峻が殺されたのは、崇仏論争とは関係がありません。崇仏論争のときには、崇峻は蘇我馬子の側に立って勝利しています。ところで物部氏滅亡のことですが、これは『日本書紀』さえもがそう書いているので、これまで物部氏滅亡が崇仏論争の結果としてきたのは…
『天皇記』『国記』に蘇我氏中心の歴史が書かれていたとすれば、それはクーデター勢力にとって格好の批判材料となり、例えば「国を私物化した」などと文句を付け蘇我氏を貶める手段に使用されてしまうでしょう。蝦夷は、それを怖れたものと思います。事実こ…
官職には就いていなかったでしょう。あくまで有力な王子宮の経営者、大王位継承候補者として、王権に参加していたものと考えられます。ちなみに、一般的に厩戸を摂政に任じたとされる『日本書紀』推古天皇元年夏四月庚午朔己卯条には、「厩戸豊聡耳皇子を立…
仏教は当時、「蕃神」つまり外国の神と認識されていたようです。日本列島では、在来の神祇を神像として表現する風習は一般的ではありませんでした。しかし、縄文以降神霊的なものを造形する志向が皆無であったわけではなく、古墳時代に神仙を造形した三角縁…
事実と虚構の境目が分からないものばかり、といった方が適切かもしれません。
上にも書きましたが、『書紀』が批判的に描いているのは、晩年の蝦夷と入鹿の2人であり、決して蘇我氏を完全に否定しているわけではありません。また入鹿については、中臣鎌足の伝記である『藤氏家伝』大織冠伝に、僧旻が自分の塾のなかで卓越しているのは…
『日本書紀』は、実は蘇我馬子に対しては、それほど批判的に記述しているわけではありません。大化の改新の際にも、馬子が仏教を隆盛させた功績は大きく評価をしています。用明も崇峻も推古も蘇我氏系の血統でしたので、蘇我氏の血自体を忌避しているわけで…
本宗家の本拠や出身地などの地名、王権に奉仕する職掌に関するもの、元来本宗家の持っていたウヂ名を元にするもの、などがあったようです。いずれにしろ、王権の設計、あるいは本宗家の仕奉のあり方に包摂されるものであったと考えられます。
クーデターですので、それを起こした勢力が政治の実権を握ってしまえば、処罰も何もありません。その立場が正当化されるだけです。ちなみに山背大兄襲撃には、中大兄の異母兄である古人大兄、その他の有力豪族も関わっていました。クーデターの時点では、入…
「天子」は、中国的な天の概念が前提となっていますので、一般に当時の日本列島で、大王を「天子」と呼ぶことはなかったと思います。あくまで、外交的なものです。しかし、ワカタケル大王の時期に作られた刀剣や鏡の類には、すでにみたように「治天下」との…
『書紀』に記述がありますが、この2つについては複数の史料が存在します。前者は聖徳太子関連の寺院関係、後者は藤原氏の『藤氏家伝』などです。前後の文脈や複数の史料の比較から、大きな矛盾点はないので、とりあえずは事実と考えられています。ただし、…
それは、列島社会の環境と歴史に根ざした在来の思想、思考方法が、しっかり存在したと思います。中国思想が入ってきても、それが列島に定着してゆくとき、さまざまな取捨選択が主体的に行われ、変容も起きる。日本列島が、中国になってしまうということはな…
どこまでが虚構でどこまでが事実なのかについては、まだ議論が続いており定説を見出せていません。ゆえに、教科書に充分反映されていないのです。しかし現在では、『日本書紀』に書かれているとおりの太子像を事実と認めているひとは、歴史学界においてはご…
授業でもお話ししましたが、これはこのときだけの特殊な事情ではなく、弥生時代以来の朝鮮半島と北九州との密接な繋がりのうえに成り立っているのだと思います。中央の支配勢力は、ヤマト王権として屹立してくるまでの間に、朝鮮半島や中国大陸との政治的・…
それはかなり飛躍のある授業ですね、たぶん大山誠一説です。あくまで仮説であって、通説ではありません。大山説に基づくなら、不比等が『日本書紀』を述作する際、中国的教養を身に付けた理想的人物として太子を造形し、中国や朝鮮に対し自国の歴史を粉飾し…
五経とは厳密にいうと、『詩経』『書経(尚書)』『礼記』『周易(易経)』『春秋』のことを指します。『詩経』とは、戦国諸国の国風歌謡や、貴族・朝廷の宴席、祭祀などで用いられた歌謡が収められています。かつては孔子が編纂したものとされ、各歌の背景…
飛鳥寺の塔の芯柱を支えている心礎からは、塔には必ず埋納される舎利瓶(本来は釈迦の遺骨である舎利が収められるが、後にはそれに見立てた宝石類、または法舎利として仏典などが替えられるようにもなった)のほか、勾玉管玉などの玉類のほか、周辺からは武…