一匹の虎を救うために自らの生命を差し出すことは確かに凄いことですが、それでは一度きりの救済にしかならず、他の人が真似できない点でもあまり評価できないと思いました。

救済という問題が出てくると、必ず出てくる問題ですね。確かに一理あるのですが、たいていは、目の前の生命を救済することができない、そうした勇気がない、あるいは他者より自分の方が大切と考えていることへの、言い訳として使われます。目の前のその個が、自分が救済しないと死んでしまうとき、自分は身を挺してこれを救えるかということは、そうした情況を生み出してしまう社会をどうにかしよう、政治を改善しようという問題とは、次元の異なることです。彼が、彼女が、その場で救われねば意味がないのですから。飢えた虎は自分が生きたいと思っているのであり、他の虎がどうとか、種の存続をとかは考えていません。目の前のこの人間が、自分たちの種の置かれている情況を救済してくれるだろうから、自分は今は我慢して死のう、とは考えません。目の前の一匹の虎を救うことができないなら、「一度きりの救済にしかならない」「他の人が真似できない」などは言い訳に過ぎず、「自分は虎の命より自分の命の方が重いと思っているのだ、だからこそ自分が生存する未来を前提にした言い訳を考えるのだ」と、自覚する必要があります。