皇后は皇族からしか出ないと思っていたのですが、一臣下でしかない不比等が、娘の宮子や光明子を天皇に嫁がせることができたのはなぜですか。 / 不比等が権力を持ちえたのは、文武に宮子を嫁がせることができたからですか?

不比等が権力を掌握する過程については、実は分かっていないことが多いのです。奈良時代中期に藤原仲麻呂が編纂した『藤氏家伝』には、大織冠伝(鎌足伝)・貞慧伝・武智麻呂伝が収録されているのですが、不比等伝は欠けています。本来は存在したのか、いや偉大すぎて書くことができなかったのではないか、とする見解もあります。しかし有力な想定としては、判事として出身する前後、不比等草壁皇子のブレーンとして側近に奉仕していたのではないか、とする見方です。天武の皇子のうちやはり有力な存在だった大津皇子にも、多くの優秀な知識人が付いており、彼らは大津が謀反の疑いで処刑されて後も、律令国家に重用されていました。不比等は、来たるべき律令体制の専門家として草壁を教導し、それゆえにその子孫たちを皇位に就ける継承路線を案出して、持統によって特別な地位を与えられた。そうして文武、首皇子聖武)を庇護するような存在となり、自分の娘たちも彼らの後宮へ入れることができたのだと思われます(なお、当時の後宮は、不比等の後妻で光明子の母親である県犬養宿禰三千代が統括していました)。ちなみに、聖武の遺品である正倉院御物のなかには、黒作懸佩太刀という宝刀があります。これには、かつて草壁皇子から不比等軽皇子(文武)に渡すよう預かったものを、文武が臨終の際に再び不比等へ託し、首皇子聖武)へ奉られたという伝承が付されています。不比等の立場を象徴するエピソードです。