藤原京から平城京に移ったのは、藤原京の建設中に死者が出て不吉だったからと学校で習ったのですが、それは先生の仰っていた長安城との相違を背景にしたうえで、流された噂のようなものでしょうか?

うーん、それはもしかすると、長岡京の誤りではないかと思います。平安のところでも(駆け足で)お話ししましたが、平城京のあとの宮都である長岡京では、突貫工事中に建設責任者であった藤原種継が暗殺され、その事件の処理によって廃太子された早良親王が、軟禁中に食を断って自死する結果となりました。以来、桓武天皇はその怨霊に悩まされることになります。藤原京においては、造営時に工事域内にあった古墳を削平する際、遺体を別所にあらためて埋葬するといった記事は出てきますが、死者が出て不吉といった記録はありません。