2016-07-04から1日間の記事一覧
安積親王の母親は県犬養広刀自で、後宮を統括していた藤原不比等の後妻で光明子・橘諸兄らの母親、県犬養三千代の同族です。恐らく、三千代の差配によって、聖武の妃になったものと考えられます。奈良時代の皇位継承は、天武系/天智系の合体である草壁皇統…
日本の古代文化における女性の活躍は、もちろん列島の独自性もあるでしょうが、例えば大陸でも、六朝江南地域では女性が活躍しています。仏教では男性僧侶に匹敵する学識、政治力を持った尼僧が輩出していますし、茅山道教なども女性の地位が高い。朝鮮半島…
大仏造立に関して、宇佐八幡神が仏教に帰依し、列島の神々を率いて事業に協力するとの託宣を下します。以降、一地方神に過ぎなかった八幡は急速に勢力を拡大し、仏教国家たる王権の守護神となってゆきますので、この動きには大いに政治的な臭いがします。し…
いえ、即神自体は、天武以降天皇認識の前提となっています。それゆえに、大仏造立の際、聖武が「三宝の奴」になると宣言したことが、大きな矛盾を孕むのです。この先例には、中国南朝梁の武帝などがいますが、聖武の場合は、下に説明した宇佐八幡などのよう…
恭仁京の置かれた木津は7世紀より物資流通の拠点として栄え、淀川水系を用いて水路で運搬された物資が、ここで水揚げされ南の藤原京、平城京などへ車などで運送されてゆきました。橘諸兄の別業(別荘)の置かれた井手地域は、このような環境のなかで渡来系…
これは案外に難しい問題です。仏教では、とくに奇数を重視するという考えはありません。しかし、8を悟りを表す聖数として意識します。そうして聖数であるがためにあえて表示せず(例えば、日本古代に天皇の姿を御簾で隠すのと同じ発想です)、あえて8を明…
奈良時代の当初、東大寺への庶民の参詣がどの程度許されたのかは、実はよく分かっていません。ただし、天皇から庶民までが協力してひとつの知識をなし、大仏造立を完遂するという聖武の理想からすれば、無礙にそれを禁制したりはしなかったと思われます。む…
そうですね。事例を挙げればキリがないのですが、仏教には女性差別関連の思想が拭いがたく存在するのです。例えば、五障。女性は、梵天、帝釈天、魔王、転輪聖王、仏陀といった卓越した存在にはなることができない、という考えです。また女性出家者の尼も、…
おもしろいですね! 確かに、「天子南面」の思想をもとに、漢文として「南無阿弥陀仏」を読解すれば、そう読めるかもしれません。しかし実際は、「南無」はサンスクリットのナモー、すなわち帰命=命を帰属させる、帰依する意味の言葉を、漢語に写した音写な…
北極星は、ご存知のとおり、地球の自転軸を点へ延長した地点に位置するため、地球からみると回転する天の中心に位置することになり自分自身は動きません。その中心性、不動性が、天帝の居処として意識される由縁です。地上の天子はそれを体現する存在、世界…
天平9年の天然痘流行については、一般向けに出された太政官符による指示と、官人向けに出された典薬寮の答申に基づく指示の、2つの対策が残っています。当然のごとく、後者の方が専門的な、医薬なども多く用いた処方になっており、後者はそうした処置が受…
人民から徴集した正税の帳簿である「正税帳」から、稲を貸し付けて利稲を取る出挙の免負稲率、すなわち負荷人民の死亡によって免除となった負担額の割合を調べてみると、おおよその死亡率を導き出すことができます。通常、この割合は10%未満なのですが、天…
天平9年の天然痘の流行の被害は凄まじいもので、従五位下以上の京官の約4割弱が半年のうちに死亡し、国家の中枢である議政官の半分以上が亡くなってしまいました。国家を動かす知識・技術を持った人々が、地方の末端から中央の中枢に至るまでほとんど死亡…
いいえ、必ずしもそうではありません。7〜8世紀にかけて、国家の奨励のもとに氏族による寺院造営が盛んになったのですが、ほとんどが国家による補助金を当てにしたもので、実際の信仰は根付かず、放置されたままになっている寺院が多かったのです。藤原武…
実は教科書では、かなり以前から「この法は、政府の掌握する田地を増加させることにより土地支配の強化をはかる積極的な政策であったが、その一方で貴族・寺院や地方豪族たちの私有地拡大を進めることになった」と記されており、「墾田は、租をおさめるべき…
当時の行基集団は、平城京近辺の交通路に布施屋を設け、行路に難渋した者や浮浪逃亡者、逃亡役民の類を救済する活動を行っていました。それらは仏教の説法を行う道場に付設され、私度僧を含む男女が協力して運営していたと考えられます。またその活動資金は…
やはり著名なのは、四子の次男、藤原房前です。彼は、元明上皇から首皇子の後見役として内臣の職を任じられ、長屋王の宴席にも出席していました。また、宴席への誘いを辞退する漢詩が残っていますが、入唐留学から帰国した道慈(国分寺の発案者と推測)も、…
藤原不比等自身が書き残しているものがないので、詳細は不明です。しかし、不比等が生前に長屋王は大納言となり、四子は次男の房前が参議に就任しているだけでしたので、長娥子を嫁がせていた関係からしても、長屋王をいただきつつ四子が協力する体制を志向…
藤原四子が、それぞれ独立して起こした家です。以降平安時代にかけて、宮廷においては氏族としてのまとまりが細分化し、家の時代になってゆきます。それぞれの名称は、武智麻呂と房前の家がそれぞれ南北に位置したことから南家、北家となり、式家は宇合が式…
恐らくは、後に付加されていったものであると考えられます。現在興福寺や元興寺の位置する外京地域は、春日山へ連なる丘陵地帯でした。平城京域は右京が低湿で、左京へゆくほど高燥になってゆきます。ゆえに、上級貴族の邸宅も左京以東に集中する結果となり…
うーん、それはもしかすると、長岡京の誤りではないかと思います。平安のところでも(駆け足で)お話ししましたが、平城京のあとの宮都である長岡京では、突貫工事中に建設責任者であった藤原種継が暗殺され、その事件の処理によって廃太子された早良親王が…
例えば藤原京に造営された寺院に関しては、解体して平城京へ移築しています。平城宮については、藤原宮と設計が異なっていたので、そのまま移築するというわけにはゆかなかったでしょうが、再利用可能な木材・石材などについては、解体・運搬されて用いられ…
通常の政治、兵法としてはありうる話だろうと思いますが、確かに『春秋』三伝をはじめとする中国史書が輸入され、研究が進むなかで、このような方策が立案されるようになっていった可能性はあります。奈良時代以降、文章得業生に対する試験「対策」において…
隼人は、南九州にあってヤマト王権に服属していた集団で、東北の蝦夷と同じく水田経営を主体とせず、焼畑や狩猟・漁労などから成り立つ社会を築いていたと考えられます。彼らは、やはり九州という立地上、蝦夷よりも早くに王権へ服属していたようですが、当…
カラスは古代において、必ずしもマイナスの印象のみを持つ存在ではありませんでした。熊野社や厳島社をはじめ、烏を神使と定めている神社もあります。『古事記』や『日本書紀』では、熊野で遭難した神武天皇を導く存在として、八咫烏が登場します。しかしこ…
稗田阿礼については、偽作説のある『古事記』序文しか史料がなく、その詳細は判明していません。しかし序文に則していうならば男性であり、女性説は、稗田氏を輩出した猿女君の性格に基づく推測、ということになります。猿女君は、中臣や忌部らとともに王権…
授業でもお話ししましたが、『古事記』は内廷的な書物であり、『日本書紀』は国家の正式な歴史書です。前者は宮廷社会においてのみ読まれていたと思われ、平安時代に至るまで記録は存在せず、その当初も『書紀』を読むための参考書と位置づけられていました…