孝謙天皇が重祚して称徳天皇となり、道鏡を天皇の地位に即けようとしたのは、仏教国家を形成するための一環と理解してよいでしょうか。 / 称徳はなぜ、皇族以外の人物を皇位に就かせたかったのでしょうか。 / 称徳天皇は仏法を信奉していたのに、なぜ神である宇佐八幡の信託を求めたのですか?

この問題については、授業でも触れたように諸説あり、まだ議論が戦わされている状態です。かつては、称徳と道鏡のスキャンダルなどが俗説的に喧伝され、道鏡の悪人的イメージ、称徳の「愚かな女」的イメージが強かったのですが、近年はその再検討が進んでいます。有力な見方は、やはり称徳が聖武から託された仏教国家を完成させようとした、ということです。邪馬台国のあたりから連続してお話ししてきたように、王位の安定的継承は、古代国家において最重要の課題のひとつでした。ヤマト王権においても、血統重視、大兄制、父系嫡系継承、皇太子制と、その是否はともかく、紛争を回避し継承を無事に達成する仕組みが模索されてきました。しかし、奈良王朝に到ってもその完成はならず、称徳自身も、皇位継承に伴う種々の紛争、殺し合いを目の当たりにしてきたわけです。彼女にとって、血塗られた皇族の軛から解き放たれた、神聖な僧侶を王にいただき、血統から解放された真の禅譲を実現することこそ、仏教国家の完成だったのかもしれません。ちなみに宇佐八幡については、やはり前回のブログでも触れましたが、大仏造立に列島の神祇を率いて協力すると託宣し、以降仏教国家を守護する〈護法善神〉の代表のように扱われてきた神格でした。だからこそ、他の神社ではなく、宇佐八幡の神託が意味を持ったのです。