史実であるか否かを問うことが重要ではないというのは、仮に間違っていても、史料として残っているものは変えることができない。それを正すことより、なぜそのような歴史が史実として語られているのかを問うことのほうが大切ということですか。 / 史実か否かで判断しないということは、歴史に嘘が混じっていても認めてしまうということなのでしょうか。

3回目の授業でも述べましたが、史実であるか否かということは、近代科学としての歴史学においては重要な判断基準です。しかし、そこで措定されている史実は、ある一定の価値・基準に基づいて判断された物語りに過ぎず、例えば今後より理論・方法論が発展して再検証されれば否定される可能性のある、永遠の仮説に過ぎません。歴史研究の紡ぎ出す史実は、どこまでいっても過去そのものにはなりえないのです。例えば、ぼくが授業をしているこの教室の90分間に起こったできごとを、受講生のメンタリティーも含めてすべて描き出すことは可能でしょうか。恐らく、その90分が1分であっても不可能でしょう。認識においても、判断においても、考察においても、叙述においても、さまざまな要素がそこから抜け落ち、または意図的に削除され、新たな論理のもとに整理されることで、さらに多くの文脈が覆い隠されてしまう。歴史が物語だというのはそういうことです。それを自覚すれば、史実が絶対の判断基準ではないことが分かるでしょう。史実の追求は重要ですが、同時にその問題性を自覚し、零れ落ちてしまうもの、隠蔽されてしまうものにどう向き合うかが重要なのです。