2017-04-24から1日間の記事一覧
一神教の問題は、今後扱うことがあると思いますが、世間で一般的にいわれている一神教=唯一神信仰・閉鎖的、多神教=開放的との位置づけは、多く政治的なデマゴーグか誤りを含んだ言説であることを、まずは知るべきです。宗教学や神話学の世界では、とくに9…
人道や人命に関わる問題は、非常に難しいですね。これはもう、意見交換をしてゆくしか方法がないでしょう。例えば、ある国の社会・文化的慣習がある階層の人々、ある性別の人々を抑圧し、その生命や安全な生活を危険にさらすことがあるならば、それが、同国…
3回目の授業でも補足的にお話ししましたが、〈物語り〉は、人間の言語行為全般を分析、精査するための概念で、恐らく現在人口に膾炙しているような、フィクション性が強いとか、政治的な色彩が強いとか、恣意性が強いといった要素のみを持つものではありま…
ああ、史実かどうか、という点では、たくさん虚構が含まれますね。行基や空海などのスーパーマンになれば、日本全国のいずれにもその足跡を認めることができますが、行基は畿内から外へは出ていません。空海は讃岐の出身で、唐にも渡っていますが、帰国し入…
上でも述べましたが、物語りは人間の通常の言語行為なので、すべてが「無理矢理のこじつけ」ではありません。むしろ人間は、物語りによってしか事象を把握できないのです。また現実と向き合うことが激しい痛みや苦しみを伴う人にとっては、「無理矢理のこじ…
トラウマ記憶や後付けバイアスによって作られた物語りは、個々人の防衛機制として働くものなので、多く社会的機能を発揮するものとしては蓄積されない、共有されない種類のものと思います。それらが人々の口の端にのぼるときには、やはり苦痛の経験とは無縁…
「結び」ですね。エンディング、まとめです。これがなければ、それこそ「ネバー・エンディング・ストーリー」になってしまいます。
3回目の授業でも述べましたが、史実であるか否かということは、近代科学としての歴史学においては重要な判断基準です。しかし、そこで措定されている史実は、ある一定の価値・基準に基づいて判断された物語りに過ぎず、例えば今後より理論・方法論が発展し…
「逃げ道」の定義については、上の質問に対する回答もみながら、少し考え直してみてください。そのうえでですが、「反復=取り戻し」は、先人たちの生において理不尽に断たれてしまった可能性や、権力ある支配的な言説によって排除され、あるいは隠蔽されて…
実証史学における史実という概念が、一定の物語りとして紡ぎ出されていることは確かです。しかしだからといって、factに向き合おうとする真摯さや誠実さを放棄してしまえば、マイナスの意味での諦念に満ちた相対主義に陥るだけです。文化人類学などでも、か…
去年発表した論文に、中国西南少数民族のヤオ族が持つ歴史観について研究したものがあります。そこでは、たとえばぼくらが「民族のアイデンティティーを保つためには絶対必要」と考え、事実ヤオ族も華やかな文書にして持ち歩いている始祖神話を、必要がなく…
確かに、歴史学者にレビューをさせると、そうした評価になることが多いですね。不正確な云い方だと思います。その「歴史上の人物について述べた本」が、史実であることを中心に据えた伝記ならば、内容を分かりやすくみせるため、あるいは飽きの来ない娯楽性…
うーん、前半のような話はした記憶がないのですが、何か誤解があるのでしょうか。現代歴史学は、いわゆる政治の世界、あるいは国家レベルで生み出されたものではなく、『八重子の日記』のようなエゴ・ドキュメント(個人的記録)を含め、いかなるものをも史…
大事なことですね。しかし、いわゆる〈伝統〉というものは、そうした形で時代ごとに変異してきたのだ、ということも重要です。現在一般に妖怪として認知されているものの多くは、江戸時代を遡りません。また近代の江戸懐古趣味や、場合によっては水木しげる…