物語りの構造として、理由の分からないことの筋道を立てるという機能があるが、「反復=取り戻し」の倫理性と合わせると互いに矛盾する点があるのではないかと思った。つまり、呪術や幽霊譚を「理由がわからないときの筋道」と考えると、それを「取り戻す」ためには、まず「非現実的」という先入観を取り払わなければならない。むしろ、呪術も科学も「逃げ道」として平行に扱っているからこそ、物語り論にすべて還元することで対等に扱えるということだろうか。

「逃げ道」の定義については、上の質問に対する回答もみながら、少し考え直してみてください。そのうえでですが、「反復=取り戻し」は、先人たちの生において理不尽に断たれてしまった可能性や、権力ある支配的な言説によって排除され、あるいは隠蔽されてきてしまった生の物語りを、それを受け取る人々が現在において復活させ、現代社会に意味のある事柄として再布置することを意味します。例えば私の友人の民俗学者は、東日本大震災津波被害を受けた石巻市鮎川文化財収蔵庫の考古資料・民具などを、瓦礫のなかから救い出してクリーニングし、これ以上損壊しないよう処置を施して返還する〈文化財レスキュー〉を、学生ボランティアと長い間続けています。その作業のなかで発見された、近代の探検家ロイ・チャップマン・アドリュースによる鮎川における近代捕鯨の調査写真は、かつて捕鯨の町として栄えた鮎川の記憶を取り戻し、町に住む人々の心を活性化させました。他にも種々の文化財が、失われてしまった人々の生活・文化、そして個々の人々に対する記憶を甦らせ、現在を生きる町の人々に誇りを与えています。これこそ、「反復=取り戻し」の好例です。幽霊譚などを「反復=取り戻し」の言説として捉える場合、その非現実的な考え方を取り戻すということではなく、例えばタクシー怪談を切っ掛けにして亡くなった娘の「死」と向き合うことができるようになり、ご両親が彼女がやろうとしていたこと、将来なろうとしていたものを知り、それを受け継ぐ形での活動を始めた…などの事例が相当すると思います。