シミアンが歴史学を、社会科学的に転換させようとしたのは、そもそもなぜなのでしょうか。

シミアンのセニュボスに対する批判は、あくまでセニョボスが「新興の社会科学は歴史学に学ぶべき」としたことへの反論です。当時、デュルケームらを中心とする社会学ほか、地理学や心理学、民族学といった社会科学諸分野が勃興し大きな成果をなし、その端々で旧態依然とした歴史学などへの批判が投げかけられていたのに対して、セニョボスは反論する形で応答したわけですが、それについてさらにシミアンが反批判を行ったわけですね。シミアンとしては、もともと歴史学に近しい場所で学んでいたわけですが、ドレフュス事件を契機にそのあり方に不満を募らせ、アンリ・ベールやデュルケームの活動に参画してその批判的視点を明確にしていったところで、ちょうどもろもろの条件が整ったのでしょう。ある意味では、歴史学に対する愛着の表れだった、とみることもできるでしょうね。