歴史学の常識として、「主観的になってはいけない」とされている一方、「主観がなければ研究は始まらない」ともされているように感じる。私としては、「感性の歴史」などはどうしても主観が介入せざるをえない気がして、「歴史学らしくない」と感じてしまう。先生は、「主観」や「感性」と歴史学の距離感について、どのようにお考えですか。

以前にもここに書きましたが、現代歴史学のひとつの到達点として、「人間は誰しも主観から逃れられず、それは矮小で偏った視座でしかない。しかしそれゆえにこそ、その人間にしか発見しえない過去の局面がある。狭小な主観しか持ちえない人間がそれぞれ過去に向かうことで、他の誰も明かしえなかった過去の局面が明らかになり、過去の多様さと豊かさが実現される」という考え方があります。主観を排するということは、例えば自分の政治思想や価値観に強引に引きつけて史料を解釈したり、恣意的に歪曲した読解を行うなどの姿勢を誡めるという意味で、経験科学である歴史学は、むしろ「主観をいかに鍛えるのか」が重要な訓練になってくるはずです。「誰がみても同じ」にはならないのが、実は歴史学の重要性であり、だからこそ社会科学、人文科学としての性質を強く持つのです。なお感性の歴史については、何を問題意識として持ちどう表現するかによって、必ずしも主観性が大きく影響するということはありません。例えば、人間がどのような情況で涙を流すか調査しようと思えば、まず史料を博捜し、人間が落涙するシチュエーション、年齢、性別、階層、前後の情況、落涙の様態などを項目として立て、時代や階層によってどう相違があるかを整理すればいい。そのうえで、なぜそうした相違が生じるのかを考察してゆくわけですが、データ整理は周到さと繊細さと粘り強さがあれば何とかなる。問題は後者で、主観による結論のずれが生じるとすれば、そこにおいてでしょうね。