引きこもりなどで身体経験が減少し、インターネットという比較的数学的で無限に近い「空間」で過ごす時間が増加すると、身体を持った存在であるという認識が希薄化してゆくのを感じます。人類全体としても、この方向に進んでいると思うのですが、数十年前と今とで〈体験されている空間〉の認識は変わっているのでしょうか?

そのようなことは、多々あるだろうと思います。少しサブカルチャー的な話題を出しますと、宮崎駿が『もののけ姫』を制作しているとき、若手アニメーターによるアニメート描画作業が、極めて深刻な問題に直面していることを吐露しています。彼がいうには、キャラクターの動きを描写するアニメートという作業は、自分が身体感覚として学んだものをそのまま手を通じて出力してゆくものである。よって、経験していないことは、極端なことをいうと作画できない。若手アニメーターのアニメートは、自分自身が経験した身体化された情報に基づくのではなく、多く他のアニメ作品をみて覚えた動きに過ぎないので、彼らによるアニメートはイミテーションにしかならないと。これは特殊な例かもしれませんが、自然観や人間観をはじめ、空間や他のアクターに対する感受性などは、どんどん扱える情報が乏しく希薄になってゆくだろうとおもわれます。