オリンピック便乗型の資本主義のあり方は、惨事と違ってオリンピック後にオリンピックが地域の歴史となり、場所の要素となったとき、商業施設、スポーツ施設などが将来的に場所化される可能性があると思う。惨事の場合、惨事が歴史となっても商業施設には負のイメージ、地域に無関係のイメージしかないと思います。

少し誤解があるかもしれません。オリンピックによる大規模施設建設が惨事便乗型資本主義に似ているのは、その過程でクリアランスが生じるからです。1964年の東京オリンピックのときにも、江戸期の水の都の記憶を伝えていた河川や運河が暗渠になり、あるいは高速道路になって姿を消し、歴史的に水辺に構築されてきた、所有関係の曖昧な無縁の空間、一般社会から疎外された人々の自律的空間が消失しました。代々木の霞ヶ丘アパートなど、東京への空襲で行き場を失った人たちを収容した木造長屋の都営住宅を、代々木競技場を建設するために取り壊す必要が生じたため、彼らを収容するために建設されました。しかし2020年東京オリンピックによる競技場拡張工事のため、再びこれを取り壊すことになり、居住者はまたしても立ち退きを迫られています。2012年ロンドン・オリンピックの際には、セックスワーカーやホームレス、エスニック・マイノリティや労働者階級の人々に対するクリアランスが強行されました。2016年リオ・オリンピックの折にも、警察権力の強行的発動により、前年度までより40〜50%多い600人に及ぶ人々が、警察によって殺害されたことが分かっています。日本社会では、より陰湿な形、すなわち目に見えない形での抑圧が行われるのではないかと、国際的に注視されているのです。