主観性を排除することは不可能ではないでしょうか。史料が文字で記されている以上、無理だと思うのですが、重野がいうように、事実のみをありのままに証明するなど可能なのでしょうか? / 昔の時代の文献には、編纂または記述した人の主観が入っているのでは内か?歴史の史料で過去を明らかにすることに客観性はあるのか?

何度かお話ししているように、真正な意味での客観的な記述は実現することができません。また、これも何度もお話ししているように、歴史は物語りであり過去そのものではありません。叙述・記述である限り、あらゆる史料もまた客観的なものではなく、主観的です。この世界は主観の交渉によって成り立つ間主観的なもので、客観性は蓋然性のグラデーションに過ぎません。ただしその精度を、無限に高めてゆくことは可能でしょう。過去の史料も、いかなる内容のものかで抽象度に相違が現れますので、多くの人々が同意しうる堅固な蓋然性に到達しうる場合と、その逆の考察となる場合が出てきます。例えば、「昭和天皇終戦詔勅は、8月15日に全国へラジオ放送された」という事柄は抽象度の低い事実として高い蓋然性を与えられますが、「昭和天皇は、心のうちでは戦争に否定的であった」といった抽象度の高い事柄は、あらゆる史料を集めても高い蓋然性に到達しない場合があるのです。