国家という大きな存在と、支配者・被支配者の構造がないと、技術の発達ができないのではないかと思います。

例えば、戦争がなければ人類の技術発達はなかった、冷戦期に科学が急激に発達したが、それが終結したことによって、発達の速度が弱まった、という言説があります。これは一見歴史の事実をいいあてているようですが、幾つかの誤りや隠蔽があります。まず第一に、前回の授業でお話しした枠組み・語り方の問題で、冷戦期に発達した科学技術を無条件で「よいものである」と規定してしまっています。しかし、核兵器開発競争のなかで、世界にどれだけの惨禍がもたらされたのかを考えれば(よく、日本を唯一の被爆国というひとがいますが、大きな間違いです。なぜかは考えてみて下さい)、そしてまかり間違えば世界が滅亡していた危険性を考えれば(そして未だその危険は回避されていません)、それを「よいものである」とみなすのは非常に政治的です。原子力発電所は「核の平和利用」といわれていましたが、それが核兵器開発の副産物であったことは、歴史学が実証しています。同じように、国家や支配者/被支配者の構造が作り上げられることで、多くの問題や惨禍が出現したこともまた確かなのです。その苦難のなかで生きることを強いられてきたひとからすれば、「国家のもとで開発された技術がよいものである」などという価値判断は、とうてい受け入れられるものではありません。それは、国家が自己を保存するために喧伝しているイデオロギーに過ぎないのです。農耕社会では、狩猟を「残酷だ」と蔑む空気がありますが、逆に狩猟採集社会では、農耕を「女神の髪をむしり取り、目をくり抜き、手足をもぐ残酷な行為」と位置づけます。歴史上、農耕を罪悪と捉える「農耕原罪論」も、世界中の神話や伝承のなかに残っています。まず、われわれ自身が当たり前だと考えている価値観から自由になることが、歴史研究のうえでは非常に大切です。