吉原の遊女などの話で、自らの穢れの部分を蛇と重ねたとのことですが、すべてが自分の存在を後ろめたいと生きていたとは思えません。強く凜と生き、この世界に食らいつき、生きのびてやると、男共を毒で殺してやるような、強い意志を蛇に重ねていた面もあるのではないでしょうか。

大事な視点です、もちろんそうでしょう。授業でお話ししたのは、あくまでイデオロギーとその内面化の問題です。人類学や歴史学で差別を扱うとき、必ず付随する問題として、抑圧面ばかりを強調しすぎると被差別者の主体性が剥奪されてしまい、かといって逆に被差別者のたくましさを強調しすぎると差別の現実が曖昧になってしまう、というジレンマがあります(以前、この問題について論文を書いたことがあります)。授業では、吉原の遊女の場合、特別な存在であった花魁以外に、その精神世界を知りうる史料は多くはないので、フィールドワークなどで得た知見をもとに、彼女たちの信仰世界を復原してみました。うち鵬や猪に対する信仰は、遊女たち自身が、「蛇を喰らうもの」として選択していった、すなわち、現状に負けない強靱さが垣間見える信仰であったと思います。男性に祟りなす力のある弁才天も、芸能の神であること、蛇身であること以上に、その点にこそ遊女たしによる信仰の本質があったのかもしれません。