弥生時代が500年近く従来より遡及して考えられるようになったことで、稲作が東へ広まってゆくペースがとても早かったという説に疑問が向けられたというのは、単に弥生時代が長くなったからという理由で合っているでしょうか?

遺跡から出土した遺物の放射性炭素同位体測定によって、早期と前期の年代が著しく遡及し、弥生時代の前半が長期間化したかっこうです。そのことによって、かつては100年余りの間に起きたと考えられていたことが、実際は数100年かかっていることがみえてきたわけです。また、さらに注意しなければならないことは、例えば拠点的集落の様相です。これまでひとつの土器型式が持続するのは30年程度と考えられていましたが、例えば中期のそれが4倍近くの長さになるとして、確認されている遺跡・遺物の数は変わらない。すると、中期土器を検出した遺跡に100棟の竪穴式住居が確認できた場合、これまでは、30年ほどのあいだに100棟が営まれた遺跡で、1棟5人程度の家族であったとして500人ほどの人口の集落と想定してきたわけですが、新年代観では120年という長いスパンでその100棟を考えねばならず、2〜3世代の遷移を前提にすると、人口密度の粗密にはかなり変化が生じてしまうわけです。よって、これまで「都市」と呼ぶ人もあった吉野ヶ里の大集落など、かなりイメージが違ってくる。従来想定されてきた歴史像が、大きく変わってしまう可能性が出てくるのです。