ヤマトがこの時代の経済の中心であったとしても、他に同程度の力を持った豪族がいれば、主張連合体の支配者になれるとは思いません。大王は、他の豪族とは異なる特性を持っていたのでしょうか? / 畿内が王権発生の必然的条件を持つなら、その後も九州が対抗勢力として根強く力を持ち続けるのはなぜでしょうか?

授業でもお話ししましたが、古代においては、首長の誕生自体が経済と密接に結びついています。富の集積は、権力が発生する主要な条件のひとつです。ヤマトには、各地の文物が結集し、モノだけでなく人や情報も集積されてゆきました。前方後円墳はそうした知識と技術の結集ですが、それは同時に、それらを生み出し駆使する人々の結集の証明でもあったわけです。そうした結集の利害を調整するのが、ヤマトに胚胎した権力が期待された役割であったと考えられます。つまり、その存在は流通に関わる人々に必要とされたのであり、単なる権威と権力の拡大によって、隣接する諸勢力を攻め滅ぼして屹立したわけではありません。ヤマト王権は、それまで構築されてきた各地の政治集団の、一定の合意のもとに生まれた権力であり、それゆえに中国王朝のような、厖大な制圧戦争なしに中央集権国家を構築してゆくことができたと推測されます。なお、「その後も九州が対抗勢力として根強く…」というのは、何のことを意味しているのでしょうか? 弥生時代から古墳時代にかけて巨大な力を持った北九州地域は、ヤマト王権初期の段階で、一貫して協力的な姿勢を維持しています。同時期の沖ノ島で行われた祭祀では、畿内前方後円墳祭祀に用いられたのと同じ奉献品が出土しており、それが王権の祭祀であったことを明らかにしています。玄界灘海上交通を王権が掌握していた証拠であり、その情況を北九州の政治勢力が承認していたことの表れです。確かに、やがて磐井の乱が勃発するように、半島との関係からさまざまな利権が存在した北九州地域には、常に火種が内包されていたことは確かですが、それは畿内も同様であって、統一王権自体の構造的な課題であったといえるかもしれません。