この当時、東北地方の情勢はどうだったのでしょう。別の王権が存在したなどということはないのでしょうか?

地域王権という云い方がありますが、各地において中小の豪族を結集した王に近い存在がいたことは確かだと思います。ただし、それらは古墳時代において、一応はヤマト王権のもとに服属していました。前方後円墳が築かれていたのが、その証拠です。東北にも、比較的早くから前方後円墳が出現しており、突出した豪族が存在したことは間違いありません。しかし一方で、のちに蝦夷と呼ばれることになる、狩猟採集を生業とする共同体社会(縄文時代のそれを継承するような性格のもの)が、広汎に活動もしていました。トンデモ本のなかには、彼らを「東北王朝」のように表現するものもありますが、そもそもが「王を頂点とするような社会の仕組み」に抵抗していた人びとですので、「王朝」という規定の仕方自体がナンセンスです。縄文以来の平準化された共同体社会が展開し、そのなかで狩猟採集生活を営む集団があった一方、稲作を通じて王を生み出し、ヤマト王権の後ろ盾を得るような集団も存在し、それらがせめぎあっていたのが当時の東北であったと考えることができるでしょう。