2018-06-11から1日間の記事一覧
四神は中国で作られた方角の守護神で、宅地や都城、墳墓などを造営する際に意識されます。もともとは天文に関わりのあるもので、天の赤道に沿って作られた星座「二十八宿」を、東西南北の四方で7つずつにグルーピングしたとき、それぞれを天の四方を守る神…
プリントに挙げた『宋書』の倭王武の上表文をみていただいても分かるのですが、必ずしも希望通りには授与されていません。宋の目的としては、倭と朝鮮三国を競合させることで、半島の経営を自国に有利に進めたいと考えていたと思われます。そうした政治的意…
少なくとも、ヤマト王権に結集していた諸豪族の間ではそうであった、ということでしょう。弥生時代は、北九州や山陰地域が突出したグローバル・エリートでしたが、古墳時代を通じて鉄資源の追求と配付がなされ、武器や武具が前方後円墳体制を下支えしたこと…
これも、なぜ、という問いに対する回答は、なかなかしづらい情況です。こうした構造の石室を中心的に研究してきた和田省吾さんは、遺体を載せる台を屍床と名付け、これを持つ北部九州型の石室を「開かれた棺」、木棺や石棺を持ち遺体を密閉する形式の畿内型…
太陽が10個あり、それが代わる代わる天に昇るという考え方は、すでに中国殷王朝の時代に存在したことが、甲骨卜辞によって確認できます。どうやらそれを鳥が媒介したらしいことは、同時代の蜀の三星堆遺跡から出土している青銅神樹(扶桑のようなもの)に、1…
威信財的なものは、モノでもコトでも通時代的に存在すると思います。古代では、例えば平安時代の唐物など、価値の高い舶来の物品が挙げられます。一般には、菅原道真の建議によって遣唐使が廃止され、前代の唐風文化に対して列島固有の国風文化が醸成される…
王位の継承に、中国的な父系原理を採用しているとみせることが、倭が文明国であると標榜することとイコールだったのでしょう。上表文が東アジアの外交文書の形式をしっかりと踏襲していることは、文中にも名前のある曹達ら、背後に渡来人の活躍があったこと…
辟邪の紋様が具体的に何を表すかについては、残念ながら解明されていません。そもそも意味自体がないとも考えられますし、書き方によって意味が異なる可能性も想定されます。個人的な憶測を書いてよければ、太陽の表象とみられる鏡の紋様化に、円の周辺を連…
「縦」は水平面において横と対交する向きを意味するのに対し、「竪」は立体的に垂直する向きを表します。竪穴、竪琴など、いずれも水平面に立体的に直交しています。
地域王権という云い方がありますが、各地において中小の豪族を結集した王に近い存在がいたことは確かだと思います。ただし、それらは古墳時代において、一応はヤマト王権のもとに服属していました。前方後円墳が築かれていたのが、その証拠です。東北にも、…
巴型銅器や筒型銅器は、倭の豪族たちが、自分たちの宝器として半島にもたらしたものと考えられます。鉄素材に対する直接的な交換品というより、協力関係を結んだ証のようなものだったのでしょう。実際の交換品は、米や塩、人などと想定されてきましたが、近…
邪馬台国の卑弥呼と魏との関係でもみたように、この時代、朝鮮半島の情勢如何によって、倭と中国王朝とは直接的交渉が持てません。距離的にも大きく離れていますので、倭は、資源的にも技術的にも、朝鮮半島の南部に大きく依存する結果になっています。なお…
上でも触れていますが、例えば劉宋にとって倭の利用価値は、北朝に近接する朝鮮の経営を自分にとって都合のよい方向へ運ぶ、ということです。そのためには、倭に統一的権力があったほうが都合がいい。例えば北部の高句麗が北朝に組みしたときに、南部の百済…
中華皇帝は、「文明を持たない」周辺の夷狄に「文明をもたらす」ことを使命としています。「野蛮人」を「中華」化してゆくこと、それが中華思想の根本なのです。周辺諸民族にあえてノンヒューマンな文字を当てはめてゆくことは、単に相手を茂しているのでは…
ヤマト王権で大きく活躍する渡来系の人びとは、主に5世紀後半から6世紀初めにかけて渡来しています。南北朝の動乱期に際して、中国から周辺諸国への亡命・移動が生じ、さらにその周辺へと人の波が及んできたものと考えられます。授業で強調しておくのを忘…
東国の古代豪族が出雲系かどうかは、一部の研究者の推測と、かなりロマン溢れる憶測なので、未だ充分議論に値する材料は存在しません。のちの仏教文化の動きにおいて、山陰から北陸、北関東というルートが確認されるので、例えばやはり出雲から北陸へ展開す…
「日本原産」とされる馬は、古墳時代以降に根付いたものなので、「古墳時代に入ってきた馬」と「日本原産の馬」とは同じものを指します。現在、一般に「馬」と認識されるサラブレッドなどより二回りほど小さな体格のものです。古墳時代においては未だ貴重で…
地獄自体は、インドの冥界の概念が仏教に取り込まれ、次第に整備されて、7〜8世紀に日本列島へもたらされます。経典として決定的な影響を与えたのは『正法念処経』で、極楽や地獄の描写が豊富かつ詳細であり、これが源信著『往生要集』の原拠となって、平…
同志社大学で教鞭を執られていた、考古学者の辰巳和弘さんが、上記のテーマについて一般書も含め刺激的な論考を書かれています。専門書としてはより精密な研究がほかにもありますが、入門編としては、『「黄泉国」の考古学』『他界へ翔る船』『古代をみる眼…
これも授業でお話ししていることですが、古墳はあくまで首長墓です。古墳時代の一般庶民の墓については、遺構も少なく、よく分かっていません。縄文時代とあまり変わらない土坑墓か、あるいは遺棄葬の形で処理されていたと考えられています。直径2〜3メー…
面白い質問です。月は、死者の世界のものであるとともに、やはり再生の象徴です。ヒキガエルも兔も、それを明示しています。インドでも、死者は一定期間月に止まって、再び再生するとみなされた。日本でも、極楽浄土は月にあると、感覚的には捉えられていた…
石棺や石障を辟邪文様で覆い尽くすメンタリティーは、前期・中期の遺体に対する呪術的態度の延長と考えられます。竪穴式石室の密閉を、石棺レベルで再構成したようなものでしょう。これは、生者が自分たちのためにしたものです。死後の世界の具体的なイメー…
確かに、これは普遍的に存在しますね。ひとつには、やはり人類史において、海や川が彼岸と此岸を隔てる象徴的な存在だったからだ、ということができるでしょう。広く深く、また流れの速い水場であれば、やはり人力で渡ってゆくのは困難である。つまり、容易…
大坂柏原市の高井田横穴墓群は、6世紀中頃〜7世紀前半に造営された、160基に及ぶ横穴墓群です。凝灰岩の壁面に多様な線刻画が刻まれていますが、プリントに紹介したのは、船に乗って去ってゆく男性を、女性が手を振って見送っている図です。やはり、死者との…
いい質問ですねえ。洞窟に神話世界や他界を描くことは、クロマニヨン人の段階から行われていますが、人類学や宗教学では、やはり他界との境界を意味しているのではないかとの意見が強いようです。つまり、古墳の石室に他界を描くのは、それを入り口にして本…
授業でも説明しましたが、特殊器台が直接形象埴輪に展開したのではありません。特殊器台は、あくまで円筒埴輪の原型です。円筒埴輪が、やがて靫や蓋の儀仗・立て物を表現するように進化し、やがてそれらが差し掛けられる、あるいはそれらが守る人物をも描写…
もちろん、みなさんがより深く学んでくれるようにリストを付けているので、ぞんぶんに利用してください。
とくに禁止する理由はありませんので、okです。むしろ、積極的に使用してください。