なぜ、厩戸王でなければならなかったのでしょうか。

厩戸王は、蘇我馬子が大きな力を帯びていた推古朝の朝廷においては、用明大王を父に持ち、蘇我氏系の王族穴穂部王女(欽明大王の娘)を母に持ち、大兄の称号を冠されていた可能性もあって、王位継承の序列もそれなりに高い人物でした。業績として確実なのは、斑鳩寺を造営し、蘇我氏と協力しながら仏教の保護と普及に努めていたこと。彼の王家を上宮王家と呼びますが、寺院の瓦制作においても、独自の工房を持っていたことが、発掘調査により判明しています。『日本書紀』は、「聖徳太子」を仏教を熟知しその理想を体現しようとした人物と描いていますので、まずはその点が注目を集めたのでしょう。大王が実際に寺院を造営したのは舒明が最初で、王族となると厩戸王以前にはいません。馬子の推進した中央集権化を、血統上、何らかの形で補佐した人物でもあったはずです。馬子の功績を「移動」させるには、最も適していた人物だったと考えられます。