大友皇子が最初の太政大臣と聞いたことがあるのですが、不確かであるというのはどういうことでしょうか。

日本書紀天智天皇10年春正月己亥朔庚子条には、蘇我赤兄左大臣、中臣金を右大臣、大友皇子をその上に立つ太政大臣として、その首班体制がスタートしたことが記されています。しかし、太政大臣太政官組織が律令によって規定されて以降、出現すると考えるのが一般的です。恐らくは、持統天皇が浄御原令を施行した前後に制度化されたものと考えられます。個人的には、大友皇子は即位していてもおかしくないのではないかと考えています。『書紀』天智天皇10年11月丙辰条には、大友が内裏西殿の織仏の前で、群臣たちと、天智の遺詔を遵守してゆく旨を誓願したとの記事があります。これは、飛鳥の斎槻や須弥山像の前で行われた大王への服属儀礼の形式で、織仏は恐らく四天王か、須弥山そのものが描かれていたと考えられます。これはあるいは、百済王族を受け入れ仏教的に王権を改造しようとしていた天智朝の、即位儀礼であったのかもしれません。大友の即位が『書紀』に明記されていないのは、大海人の立場で記述された同書が大海人を、大王を死に追いやった謀叛人として位置づけたくなかったためでしょう。太政大臣は、その詐術のために、レトリックとして仮構された地位ではないでしょうか。