大津皇子の謀反は持統天応による謀略と習いましたが、本当に謀反を起こした可能性はありますか?

大津皇子の事件は、極めて不可解なところの多いものです。事件は朱鳥元年(686)10月、天武崩御の直後に起きました。2日に謀叛の全貌が発覚し、翌日には大津が処刑されていますので、その迅速さは極めて異例です。また、事件に連座して捕らえられた者たちは、なぜか同月の29日には、伊豆に配流された砺杵道作、飛騨の寺院に放逐された新羅沙門行心を除き、ほとんどが赦免されて誰も処刑に至りませんでした。当時、草壁は自身が病弱であったこと、長子珂瑠が幼年であったことなど、即位に際し種々の不安定要素を抱えていました。一方の大津は、謀叛で処刑されたにもかかわらず『書紀』で称賛されるほどの才能、声望の高さを持ち、天武天皇12年より聴政を行っていて政治的実績もありました。やはり、天武崩御に際して草壁即位の不安定要素を取り除くため、持統が〈政策としての謀殺〉を行ったのではないかと考えられます。しかし、『懐風藻』河島皇子伝は、大津の親友であった河島が友情より忠義を取り、謀叛を密告したことを伝えています。あるいは大津自身にも、自らを天武の後継者に位置づける言動があったのかもしれません。