道教の思想は、どのような形で採り入れられたのでしょうか?

正確には、陰陽五行思想に依拠した未来予知、都城占定、暦の知識・技術などです。例えば、『日本書紀天武天皇元年6月庚申条には、壬申の乱に際し、吉野から東国へ脱出した大海人が横河に差し掛かったとき、次のような記述がみえます。「横河に及らむとするとき、黒雲有り、広さ十余丈にて天を経る。時に天皇、之を異しびて、則ち燭を挙げて親ら式を秉りて占ひて曰はく、『天下両分の祥なり。然して朕、遂に天下を得むか』とのたまふ。即ち急かに行きて伊賀郡に到り、伊賀駅家を焚く。」黒雲をみて式盤を用いた占いを行い、黒雲を「天下が二分され、最終的に自分が天下を得る」予兆だと占断したとのことです。これは、中国に残る陰陽思想を用いた兵法の援用と考えられますが、いずれにしろ天武には、そうした知識があったと『書紀』は語るわけです。そのほか、のちの藤原京に繋がる都城建設に初めて陰陽師による風水を用いたり、初めて占星台を設けて天文観測に当たらせたりしました。授業でもお話ししたとおり、天武の和風諡号「天渟中原羸真人天皇」は、神山羸州山に座す仙人たる天皇を意味し、その称号からも天武の思想傾向が分かります。中国では多くの民衆反乱のもとになった道教は、日本では体系的には受容されませんでしたが、古墳時代に引き続き、このように断片的な影響はみられるのです。