武智麻呂は正六位で出仕したのち、最終的に正一位・左大臣にまで登り詰めていますが、それは不比等の長男だからでしょうか、それとも実力ですか?
もちろん、まずは藤原不比等の子息であるという点が大きいでしょう。しかし、『藤氏家伝』のうち「武智麻呂伝」を読む限りは、彼は充分な実力を持っていたようです。授業でも述べましたが、彼は長屋王や弟の房前のように議政官として廟堂に登場するのではなく、まずは地方官として地域の実情をみて、寺院合併令をはじめとした現実主義的な施策を提案してゆきます。当時の廟堂は、大化前代以来一氏族一人の原則がありました。不比等の存命中、参議として房前が廟堂入りしていましたが、これは房前がすでに不比等家から独立していたことを示し、不比等の死後、武智麻呂が中納言としてあらためて朝廷に入ります。房前は、皇室と藤原氏との仲立ちを責務としており、長屋王邸にも出入りしていたようですが、長屋王変に際してはやはり武智麻呂に荷担しています。宇合や麻呂の行動にも乱れはありません。藤原氏は、武智麻呂・房前の母親が蘇我氏出身であるなど、奈良時代に至る歴史過程で政治の表舞台から脱落していった氏族を、その内部へ取り込んでいった形跡があります。武智麻呂自身、外戚一族の石川石足をブレーンとしたようですし、長屋王邸を取り囲んだ各氏族も、律令制の枠組みからふるい落とされそうになっているところを、藤原氏に懐柔された形跡があります。文武に秀でた兄弟たちをしっかり統括しているのをみても、武智麻呂には強いリーダーシップがあったのではないかと推測されます。