江戸時代には階層、藩ごとに考え方や価値観が異なっていたものを、明治に統合してゆくのは困難が伴ったとのことですが、現在の日本もマジョリティの考え方によって人が動いているので、歴史もマジョリティの思考を教えるしか余裕がないのではないでしょうか。

マジョリティの思考とは何でしょうか。端的に「大多数の」と考えた場合、それは一般庶民の歴史観ということになり、現在主義的な教訓や、多くは現状を正当化するために物語的な歴史が再生産される状態でしょう。実証主義的な〈事実〉は、それほど重要視されません。一応はそうした〈事実〉をもとに構築されたナショナル・ヒストリーも、そうした庶民的マジョリティをひとつの方向に統合しようとしたものですので、そもそもマジョリティの思考ではありません。日本の現状をみた場合、国家の歴史教育も、その内容を知識、記憶として充分根付かせるには至っていません(恐らくは、ただ歴史は事実からなる、それゆえに記憶せねばならない、という事実崇拝のみが刻印されてゆきます)。よって、歴史教育は常に、(マジョリティそのものではなく)マジョリティを創出しようと機能します。歴史学歴史教育に対する役割としては、そうして構築されつつあるマジョリティを相対化し、そこから零れ落ちてしまうもの、隠蔽されてしまうものをいかに社会に意識させ、救済してゆくかが重要です。