国体の定義は、来たるべき戦争に向けて行われたのでしょうか。ならば、国民は何か反対運動を起こしましたか? / 近代の教育のあり方がもっとアカデミックであったら、社会的混乱は生じたのでしょうか?

国体の定義については、非常に長い時間をかけて徐々に行われていったので、一般社会においては大きな混乱は起きませんでした。しかし、大正12年(1923)の関東大震災前後から昭和15年(1940)の皇紀2600年に至るまで、国家・社会全体でみるとかなりひどい弾圧が行われています。関東大震災直後から始まる社会の綱紀粛正のベクトルは、それまでの大正デモクラシーの開かれた空気を一変させてしまいますし、震災の混乱に乗じて行われた朝鮮人の虐殺(千葉県では、収容所に集めた朝鮮の人々を軍が一般市民へ「払い下げ」、殺害させるという計画的殺戮が行われています)、社会活動家の虐殺、大正11年の別府的ヶ浜事件から昭和15年熊本県本妙寺事件に至るハンセン病者の〈クリアランス〉などが立て続けに起きており、1928年には「国体の変革」を企図した結社の構成員を死刑にしうるよう治安維持法が「改正」されています。このような抑圧が次第に強く加えられ、社会がその情況に慣らされてゆくなか、皇民として国家に従属的な人々とそうでない人々との分断を進められる。多くの人々は前者に入ることを、無意識に望むようになっていったと考えられます。なお、戦前も東北地域を舞台にした「北方性教育運動」(苛酷な東北の風土のなかで生きてゆかざるをえない子供たちに、リアリズム綴り方=作文の執筆を通じそのことを自覚的に理解させ、主体性を引き出そうとした教育運動)など、現在にも通じる先進的な教育も行われていたのですが、やはり治安維持法によって弾圧されてしまっています。