清朝のホジホン/サルガンジュイの制度ですが、女性側の抵抗はなかったのでしょうか?  / 辺民に娘を与えるのは嫌だという反発は存在しなかったのでしょうか?

サルガンジュイとなった女性たちの父親は、三等侍衛、護軍参領、前鋒、馬甲、驍騎校、委署親軍校などとなっていますが、これらはほとんど禁旅八騎、すなわち北京において皇帝を守護する親衛隊の一員です。その娘たちにとって、辺境の有力者の妻になることは、やはり望ましい結婚ではなかったかもしれませんが(清朝皇帝はもともと北方に展開していた満州族ですので、アムール川流域の狩猟・漁労民とは、以前から擬制的な血縁関係を築いていたのだという指摘もあります)、サルガンジュイになると彼女自身にも、またその実家にも大量の下賜品があり、在地においてもさまざまな優遇措置があります。ホジホンにとっては高貴な女性を妻に持つという演出に大きな意味があったはずで、裕福な生活は維持されたとみていいでしょう。ホジホンのうちには、交易のため、妻を数年おきに北京へ里帰りさせるケースもみられます。1709年、康煕帝の命令を受けてアムール川下流までを調査したイエズス会士レジス、フリデリ、ジャルトゥたちは、ウスリ川周辺で「ウスリの貴婦人」と呼ばれる女性に会っていますが、彼女は漢語を解し、容姿も所作も周辺の辺民とは異なっていたといいます。サルガンジュイの女性でしょう。なお、この制度を含むアムール川流域の少数民族の動向、清朝の統治政策については、松浦茂『清朝のアムール政策と少数民族』(京都大学学術出版会、2006年)を参照してください。